『夜のピクニック』 恩田陸
友達との特別な時間
みなさんの思い出に残っている学校行事はなんでしょうか?
文化祭、体育祭などさまざまな行事が思い浮かぶと思います。
ぼくが数ある行事の中で、一番印象に残っているのは高校時代の強歩大会です。
強歩大会というのは、全校生徒が50kmのコースを走り、制限時間内にゴールすることを目指す行事です。
強「歩」大会というのは名ばかりで、走らないと制限時間内にゴールできません。
ですから、強歩大会の前には、週4回の体育の時間で校庭の外周を走らされ、長距離を走る体力を鍛えます(しんどい!)。
キツくてしょうがない行事なんですが、楽しみもあります。
それは友達と一緒に走れることです。
50km走という極限状態に置かれると、友達の本性が垣間見えます。
高校3年のときには、一緒に走っていた友達に置いていかれて、友達の薄情さに怒りが湧きました。
一方で、ぼくがゴール直前で足をひきづって歩いていたときに、クラスメートの子が足を止めて「大丈夫?」と心配してくれた子もいて、彼の意外に優しい一面を知ることができました。
この小説『夜のピクニック』の舞台も同じような学校行事「歩行祭」です。
ただ、この「歩行祭」は朝8時から翌朝8時までの24時間、仮眠を挟んで80km歩き抜くという行事で、50kmで音を上げていたぼくからしたら想像を絶するものです。
長い道のりの中、友達と語らい合ううちに、友達の意外な側面や秘密があらわになっていきます。
貴子と融の秘密の関係、貴子の密かな賭け、杏奈がかけた「おまじない」、乱入してきた謎の少年。
読み進むにつれて秘密が明かされ、貴子と融のわだかまりが解消されていくストーリー展開は圧巻です。
みんなで、夜歩く。ただそれだけのことがどうしてこんなに特別なんだろう。
みんなで歩く。
その行為の中でかけがえのない友達と語り合い、相手の意外な一面を知り、もっとその人のことを好きになる。
人とこんなふうに深く向き合い、交流しあえる時間。
それが一生に一度しかない貴重な青春の時間だからこそ、特別だと感じるのです。
『そしてバトンは渡された』 瀬尾まいこ
繋がれる幸せのバトン
大家さんにお父さん、おばあちゃんにおじいちゃん。思い出の中でしか会えない人が増えていく。だけど、いつまでも過去にひたっていちゃだめだ。
(中略)
親子だとしても、離れたら終わり。目の前の暮らし、今一緒にそばにいてくれる人を大事にしよう。
主人公の優子は幼い頃に母を亡くし、その後も何度も父親、母親が代わっています。
水戸さん、梨花さん、泉ヶ原さん、森宮さん。
親から新たな親へとバトンが繋がれ、優子はどの親からもたっぷりの愛情を受けて育ちます。
「親子だとしても、離れたら終わり」という一見冷たくも思える優子の覚悟は、自分を今目の前で見守ってくれる人を大切にしようという優子の誠意と優しさの裏返しです。
血の繋がっていない親と暮らす複雑な家庭環境にあっても、愛し愛されるという家族の基本を忘れない。
だからこそ優子は周りから見れば不幸に見える状況に置かれても、自分が不幸だとは感じず、のびのびと生活できたのだと思います。
僕はこの小説に出てくる5人の「親」のなかで一番森宮さんが好きです。
不器用で親バカで、少しお節介なところもありますが、思春期で悩みの多い優子の相談に乗り、大量の餃子を作ったりして優子を励ましました。(励まし方がちょっとずれているような気がするけど…)
最後まで優子に寄り添い、バトンをゴールに届けたのも森宮さんです。
最後のシーンで森宮さんが残した
「どうしてだろう。こんなにも大事なものを手放す時が来たのに、今胸にあるのは曇りのない透き通った幸福感だけだ」
という感想は、大事な「娘」の幸せを願い、献身的に尽くせる森宮さんの人柄が表れた名言です。
互いを大切に思い合うという家族の原点を描いた名著です。
『凍りのくじら』 辻村深月
ドラえもんの暖かいまなざし
あなたの描く光はどうしてそんなに強く美しいんでしょう。
そういう質問をまま受ける。私の撮る写真についての話だ。
それに対する私の答えは決まっている。
暗い海の底や、遥か空の彼方の宇宙を照らす必要があるからだと。
主人公の芦沢理帆子(二代目芦沢光)は新進気鋭のフォトグラファー。
彼女が父のあとを継ぎ、写真家となったきっかけは、高校生の夏に起きたある不思議な出来事だった。
そのとき彼女が浴びた光は、今も彼女を照らしている。
今、真っ暗闇で悩み、苦しんでいる人にもその光を届けたいから、彼女は写真を撮っているのだ。
高校生の理帆子は誰とでも表面上は仲良く付き合えるが、本音で語り合うことができない人間だった。
暇つぶしのために友達と遊んだり、恋人を作ったりする周囲の人々を心の中でバカにしているから、色んな人と関わっても、自分は『少し・不在』だと感じてしまう。
彼女の父は5年前に失踪し、母は癌のため余命わずかだ。
友達との関係も家族との関係もどこか不安定な彼女は、自分の理想を追求するために、ダメ男・若尾大紀と付き合っていた。
彼と別れた後も理帆子は彼を甘やかし続けてしまい、その結果取り返しのつかないことが起きてしまう...
家族との別れ、若尾の起こした大事件。
一人ではどうにもならない窮地に直面した理帆子は自分を支えてくれる人の温かさと家族の愛を実感し、周りの人に心を開いていきます。
生きづらさを感じ、真っ暗闇のどん底にいた理帆子を終始温かいまなざしで見つめ、最後は暖かい光で彼女を照らしてあげる。
理帆子を見捨てず、支え続けるこの小説の温かさは、何度テストで0点をとってものび太を信じて手を貸し続けるドラえもんの優しさそのものです。
辻村さんの『ドラえもん』と藤子・F・不二雄先生への愛とリスペクトが詰まった物語です。
『博士の愛した数式』 小川洋子
弱いものへの無償の愛
「弱い子はみんな私が守ってあげる」
私が曾祖母のお見舞いに行ったとき、彼女が言っていた言葉です。
痩せた体に反した思いがけない、力強い言葉に驚いたことを覚えています。
年配の方が弱いものへ向ける無償の愛は何よりも力強く、逞しく感じるものです。
博士がルートに向ける愛情にも「弱いものを必ず守ってやる」という逞しい精神を感じました。
家政婦の「私」は老数学者の「博士」のもとへ派遣されます。
博士は記憶が80分しか持たず、身の回りのことも一人では全くできません。
しかし、博士の数学へ向ける情熱と愛情は人並みならぬものでした。
彼は身の回りにある数字に次々と意味を持たせていきます。
数字を愛し、謙虚な姿勢で数字に対峙する。
数学が嫌いだった「私」もそんな博士の数学についての話を聞いて、数学の魅力に引き込まれていきます。
博士が人並みならぬ愛情を向けるのは数学だけではありません。
彼は小さい子供に対して無条件に愛情を与えます。
博士は「私」の10歳の息子が一人で留守番していることを聞き、自分の家に息子を連れてくるべきだと主張します。
それ以降、息子は学校帰りに博士の家に来るようになり、博士は息子を「ルート(√)」と呼び可愛がります。
博士がルートに向ける深い愛情。
それをきっかけに「私」もルートも博士に心を開いていきます。
「私」とルートと博士。
本当の家族ではないけれど3人の強いつながりは家族に近いものを感じました。
『やめるときも、すこやかなるときも』 窪美澄
その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、 悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、 これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、 真心を尽くすことを誓いますか。
これは結婚式でよく聞く誓いの言葉です。
喜ばしいことだけではなく、辛いことも悲しいことも二人で分かち合って乗り越えていきなさい。
この言葉にはこのような含意があると思います。
この小説は家具職人の壱晴と会社員の桜子が出会い、結ばれていくストーリーです。
二人はどちらも心に「傷」を抱えています。
壱晴は、あるトラウマのせいで、毎年同じ時期に突然声が出なくなる「記念日反応」という心の病を抱えています。
桜子は、酒に溺れ、家族に暴力を繰り返す父を抱えています。
桜子が壱晴の心の傷に寄り添い、壱晴が桜子の家庭と向き合うことで二人は距離を縮めていきます。
壱晴と桜子の恋は打算的な恋です。
壱晴は過去のトラウマを乗り越え、病を克服するために桜子を求め、男性と一度も肉体関係を持たずに30代になってしまった桜子は、窮屈な家庭を抜け出すために壱晴を求めました。
純真無垢な二人が結ばれる、キラキラした恋愛ストーリーとはかけ離れたものです。
しかし、打算的だからこそ現実的で、美しいと思うのです。
ぼくの好きな曲の一節に次のような言葉があります。
キレイとは傷跡がないことじゃない、傷さえ愛しいという奇跡だ
(Official髭男dism 「ビンテージ」より )
相手の「傷」をひっくるめて愛したいと思えた。
そんな相手を見つけられたことは二人にとって奇跡だと思います。
『本日は、お日柄もよく』 原田マハ
心のこもった言葉は世界を変える
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。
これは、上野千鶴子さんが平成31年度東京大学学部入学式で新入生に贈った祝辞の一節です。
新入生としてこのスピーチを聞いた自分は、この人の言葉を一言一句聞き逃すまいと思わず聞き入ってしまったことを覚えています。
魂のこもった言葉で人の心を打ち、ときに人々の考えや行動を変えてしまうようなスピーチ。
この小説のテーマは、そんなスピーチの原稿をかくお仕事です。
OLとして毎日お気楽に過ごしていた二ノ宮こと葉は、伝説のスピーチライター・久遠久美に出会い、人の心を動かすスピーチの魅力に気づきます。
こと葉は久美の教えを受けて、選挙に初出馬する幼馴染・今川篤志のスピーチライターとして働き始めます。
この本には、スピーチをする際のテクニックや極意がいろいろ出てきます。
聴衆が静かになるのを待ってから話し始める、エピソードや具体例を織り込むなどなど。
これらのテクニックはもちろん重要です。
しかし、スピーチで一番大切なものは話し手の「心」だと思います。
親友の結婚を心から祝す気持ち、世の中を変えなければならないという意志。
こと葉の書いたスピーチにはそんな力強い「心」が込められています。
私が上野さんのスピーチに感動したのも、大学での学びを、恵まれないひとびとを助けるために生かしてほしいという心からの願いに感動したからだと思います。
ネットやSNSで心ない言葉が飛び交う世界。
「恵まれないひとびとを貶めるため」ではなく、頑張っている人々を励ますため、報われない人たちの背中を押すためにこそ言葉を使うべきです。
優しい「心」のこもった言葉が飛び交う世界になりますように。
『君が夏を走らせる』 瀬尾まいこ
素直になりたい 素直になれない
金髪ピアスの不良高校生がひとりで1歳10ヶ月の女の子の子守りをしている。
みなさん、どう思うでしょうか?
「恐ろしい」
「こんなやつに小さな女の子を任せるなんて正気じゃない」
「ちゃんとした大人に子供を任せるべきだ」
というのが真っ当な感想でしょう。
しかし、人を見かけで判断してはいけません。
この小説の主人公大田は、金髪ピアスの不良高校生。
中学校では授業をサボってこっそりタバコを吸っていたほどの悪ガキです。
でも、大田はただの悪ガキではありません。
中学3年のときに、駅伝大会に参加したことをきっかけに彼の意識は変わりました。
陸上に真面目に向き合って、不真面目な自分から変わりたい。
でも、不真面目な生徒が多い高校で真面目に振る舞うと周囲から浮いてしまう。
素直になりたいけれど、素直になれない。
そんな大田は、中武先輩に頼まれて、1ヶ月間、1歳10ヶ月の女の子・鈴香の子守りを始めます。
鈴香に振り回されながらも、慣れない子供のお世話を必死でしていくうちに、大田は鈴香の心をつかんでいきます。
「俺にも鈴香と同じように、すべてが輝いて見えたときがあったのだ。もちろん、今だってすべてが光を失っているわけじゃない。こんなふうに俺に「がんばって」と言葉を送ってくれるやつがいるのだから。俺はまだ十六歳だ。「もう十分」なんて、言ってる場合じゃない。」
人の「がんばって」という言葉に応えて、素直に頑張ることができる大田。
頑張り屋さんの彼なら、きっと未来に向けて真っ直ぐに走っていくことができるはずです。
『生きるぼくら』 原田マハ
世の中には勝ち組も負け組もいない
※本の内容のネタバレを含みます。ご注意ください。
【目次】
1. いじめられっ子は負け組か?
2. 一流企業に勤める人は勝ち組か?
3. 世の中には勝ち組も負け組もいない
1. いじめられっ子は負け組か?
主人公の麻生人生は、中学校・高校でいじめられたことをきっかけにひきこもりになります。
特に、高校時代に受けたいじめは壮絶でした。
人生は毎日壮絶ないじめに遭いながらも、我慢して学校へ行き続けました。
「学校に来なかったら、おまえの家を燃やす」と脅されていたからです。
しかし、いじめっ子が、人生が母子家庭であることをバカにし、母の作ってくれたお弁当を地面にぶちまけ、砂まみれになった弁当を食べるように強要したことをきっかけに学校へ行けなくなります。
人生は学校をやめ、「母ちゃんに、もっと楽させたいんだ」と言って働きはじめました。
近年、いじめは社会問題となり、ニュースなどでとりあげられることも多くなってきました。
しかし、「いじめられる方が悪い」とか「いじめられっ子は負け組だ」という風潮は依然としてあるように思えます。
母を思っていじめに耐え続け、母を楽させたいと思って働くことを決心した人生が、なんの目的もなく、快楽に任せて人生をいじめたいじめっ子たちと比べて劣っているとは思えません。
むしろ、人格的に優れているのは、いじめられっ子の人生の方でしょう。
2. 一流企業に勤める人は勝ち組か?
人生は派遣の仕事を解雇されてしまい、24歳まで引きこもりを続けます。
人生と共に暮らすことに限界を感じた母は置き手紙をして、家出をしてしまいます。
母が残してくれた年賀状を頼りに、人生は蓼科のマーサばあちゃんのもとへ向かいます。
人生はマーサばあちゃんの家で、おばあちゃんのもう一人の孫・つぼみと出会い、一緒に米作りを始めます。
また、祖母を金銭的に楽にさせるために清掃の派遣の仕事も始めました。
田植えの直前の時期には、人生の派遣先の介護施設で働いている田端さんの計らいで、彼の息子の純平が米作りの手伝いに来ます。
純平は一流企業でしか働く気がなく、第一志望の業界である出版社からはことごとく不採用となり、就活浪人を考えていました。
そんな純平も、米作りに参加し、父から檄を受けたことを機に考えを改め、最後まで就活を続け、農機具メーカーの子会社に就職することが決まりました。
純平は米作りを通じて、農業という自分が本当に興味を持てるものを見つけ、それに携われる仕事につくことができました。
純平は決して負け組ではなく、大企業に就職するよりも幸せな選択ができたと思います。
3. 世の中には勝ち組も負け組もいない
最近、受験や就職など様々な場において、ヒエラルキーを気にしすぎている人が多いように思います(自分も人のことは言えませんが)。
「ヒエラルキーの上位に位置しているから勝ち組、下位に位置しているから負け組」という考え方は、「上位」にいる人たちの自己満足に過ぎません。
自分の好きなことに夢中になれていることや、人の繋がりを大事に生きることの方が、「勝ち組」になることよりもよっぽど大事なことではないでしょうか。
『革命前夜』 須賀しのぶ
動乱の年1989年
※本の内容のメタバレを含みます。ご注意ください。
【目次】
1. あらすじ
2. イェンツはなぜヴェンツェルにトドメを刺さなかったのか
1. あらすじ
物語の舞台は1989年東ドイツ。
日本では昭和が終わり、ドイツではベルリンの壁が崩壊する激動の年です。
日本人ピアニスト・眞山柊史はこの激動の年に、東ドイツの都市・ドレスデンへ音楽留学をします。
彼らとの実力差に打ちのめされ、柊史は自分の音を見失い、スランプに陥ります。
彼の懸命な努力と、音楽家たちとの交流を通じて、柊史はスランプを脱し、自分の音楽の形を見出していきます。
一方で、東ドイツは社会主義国家であり、国家保安省(シュタージ)が反国家的な思想を厳しく取り締まっていました。
柊史が大学で一番親しくしていた天才ヴァイオリニスト・イェンツも、実はシュタージの一員だったのです。
どこに密告者が潜んでいるかわからない、不自由で息苦しい当時の東ドイツの状況を見事に描写した作品です。
2. イェンツはなぜヴェンツェルにトドメを刺さなかったのか
ある日、柊史と同じ大学に留学していたピアニスト・ヴェンツェルが襲撃され、致命傷を負います。
柊史はこの襲撃の犯人がイェンツであると確信し、イェンツを問い詰めます。
イェンツはあっさり自分の犯行であると認めました。
しかし、留学生・李の話を聞いて、ヴェンツェルをナイフで刺した犯人はイェンツではなく、ベトナム人留学生・スレイニェットであると判明します。
イェンツは彼女を庇うために、自分が犯人であると偽ったのです。
イェンツは現場に居合わせた李とニェットに対して、「後始末は自分でする」と言ったのにもかかわらず、ヴェンツェルを殺害しませんでした。
そして、ヴェンツェルの利き手である左手をナイフで突き刺しました。
ヴェンツェルの口からニェットの犯行がバレてしまう可能性があるのにもかかわらず、なぜイェンツは彼を殺害しなかったのでしょうか。
考えられる理由の一つは、ヴェンツェルの横暴な性格に対する怒りと、彼の才能に対する嫉妬です。
ヴェンツェルは豊かな感性を持つ天才ヴァイオリニストですが、人を思いやれない横暴な性格な持ち主です。
イェンツは彼の才能に対する嫉妬から、無意識に彼の利き手にナイフを突き刺し、ヴァイオリンを演奏できなくなった状態で彼を生かしておくことで、「生き地獄」を味合わせようとしたのではないかと思います。
ただ、合理的な人間であるイェンツが私怨だけでヴェンツェルを生かしておいたとは考えられません。
彼はヴェンツェルの才能を認めていて、失うには惜しいと考えたのではないでしょうか。
「数々の横暴な振る舞いで前途ある留学生たちを狂わせたヴェンツェルを許すことはできない。
でも、彼の才能は失うには惜しい。ヴァイオリンが演奏できなくなっても、別の形で活躍するはずだ」
そんなイェンツの相反する思いの妥協点が「ヴェンツェルの利き腕を潰し、生かしておく」という決断だったのだと思います。
『老人と海』 ヘミングウェイ作 高見浩訳
人間の生物としての本能
【目次】
1. 本の内容
2. 生と生のぶつかり合い
1. 本の内容
『老人と海』は、84日間不漁に見舞われた老人が、大物獲得を目指して一人で漁へ出るストーリーです。
老人は数日の格闘の末、超大物カジキを釣り上げますが、カジキの血を嗅ぎつけたサメが幾度となく死肉を食い荒らそうと近づいてきます。
老人とカジキとサメ。三者が命をかけてぶつかり合う。生命の躍動が感じられる作品です。
2. 生と生のぶつかり合い
84日間の不漁の末、ようやく老人の釣綱にカジキがかかりました。
しかし、カジキはそう簡単に釣り上がってはくれません。
鉤にかかったまま海深くを泳ぎ続け、持久戦に持ち込んだのです。
老人は肩に釣綱をかけてカジキを引っ張り続けたまま数日間、不眠不休で泳ぐカジキと対峙し続けます。
老人が命をかけてカジキに立ち向かう様は、ヒトの生物としての本能が露わになった形であると思います。
力では敵わない自然界の大物相手に、知力で対抗してきた勇ましい人間の姿。
ヘミングウェイは、この姿が人間の本来あるべき姿であると考えているのだと思います。
老人はやっとの思いでカジキを釣り上げますが、サメの襲撃を受け、カジキの肉はほとんど食いあらされてしまいます。
必死に釣り上げた大物を横取りされる老人の気持ちを考えると切なくなりますが、サメも生きるために必死なのです。
一筋縄ではいかない自然界の厳しさを教えられました。