大学生の読書感想文

大好きな小説の魅力を紹介します

なぜ小説を読むのか?

【目次】

1. 小説の価値

2. リベラルアーツと小説

3. すぐに役に立つものはすぐに役に立たなくなる

 

 

1. 小説の価値

 

人はなんのために小説を読むのだろう?

 

小説なんかなくても人は生きていける。

 

でも、書店には多くの小説が並んでいて多くの人が小説を買っていく。

センター試験や共通テストの国語の問題には毎年小説の問題が出ている

 

それはきっと小説になんか価値があるからだろう。

 

それでは小説の価値とはなんだろう?

 

 

2. リベラルアーツと小説

 

書店には小説の他にもいろんな本が並んでいる。

自己啓発本とか資格や受験勉強のための参考書とかすぐに役に立つ本も多い。

 

これらの本は「なんのために読むか」がはっきりしているものである。

対して、小説は一見なんの役に立つのかわからない。

 

世の中にある商品は大概「なんのために買うか」がはっきりしている。

買う側からしたら用途がわからない商品なんか買いたくないから当然だ。

 

ならば、「なんのために読むか」がはっきりしない小説は商品として失格なのかもしれない。

それでも、書店には商品として多くの本が並んでいる。

 

思うに、小説は大学の教養教育(リベラルアーツ)と似ている。

 

一つのことを追究する専門教育とは違って、教養教育では様々な学問分野を広く浅く学ぶ。

 

教養教育は各分野の触りだけを扱うので実用的でないという人もいる。

その時間を専門教育に費やした方が効率的だと。

 

「なんのために」がわからなくて一見役に立たなそうに見えるという点で小説とリベラルアーツは共通している。

 

小説とリベラルアーツは本当に役に立たないのだろうか?

 

 

3. すぐに役に立つものはすぐに役に立たなくなる

 

「すぐに役に立つものはすぐに役に立たなくなる」

これは小泉信三が『読書論』で述べた言葉である。

 

自己啓発本や参考書、専門教育は確かにすぐに役に立つものだ。

ただし、受験が終わったら、資格を取ったら、自分の専門分野を離れたらすぐに役に立たなくなる。

 

参考書などの「すぐに役に立つもの」は答えが明確にある状況でしか役に立たない。

だから、特定の目標を達成したら即座に役に立たなくなってしまう。

 

人生には答えが明確にない状況が多い。

世の中の多様な考え方に触れておかないと、答えが明確にない状況には対処できない。

 

小説やリベラルアーツは読み手の見聞を広めて、人生の難題に立ち向かうヒントを与えてくれる。

 

だからこそ人は小説を読むのだ。

『奇跡の人 The Miracle Worker』 原田マハ

自由を得るための戦い

 

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明治時代。

 

日本が富国強兵、殖産興業などを掲げ、欧米に追いつけ追い越せと躍起になっていた時代です。

 

福沢諭吉は明治5年から『学問のすゝめ』を発行し、自由・独立・平等という日本人が今まで知らなかった価値観を紹介しました。

 

明治時代は、自由や平等という価値観が欧米から流入し、広がり始めていた時代であるといえます。

 

しかし、当時の日本の実情はまだ自由・平等とは程遠いものでした。

 

閉鎖的な家制度、未発達な女子教育、男尊女卑、障害者への差別...

 

主人公・去場安はこのような悪習、差別に立ち向かい、奇跡を起こします。

 

 

物語の舞台は明治20年青森県弘前

 

アメリカに留学し、最先端の教育を受けた去場安は、弘前の名家である介良家の長女・れんの教育係として招かれます。

 

れんは目が見えず、耳が聞こえず、口も聞けない「三重苦」を抱えた少女です。

 

れんは家主の貞彦とその長男・辰彦に疎まれ、屋敷の蔵に監禁されていました。

 

手掴みで食事をし、周りの人に攻撃的な姿勢を見せるれんに自由を与えるために、安は一緒に蔵に入って彼女に寄り添い、授業をします。

 

 

去場安(さりばあん)、介良れん(けられん)という名前やストーリー展開から、この小説は、ヘレンケラーとその家庭教師・アンサリヴァンのストーリーをオマージュしたものであることが分かりますが、この小説はただのオマージュ作品ではありません。

 

そう、自由。この世で最も尊いもの。いかなる人間であれ、いかなる性別であれ、決して失ってはならぬもの。

そんなふうに、私は学んだのだわ。–アメリカで。

 

明治時代の閉鎖的な家制度や根強い差別に立ち向かい、現在の日本社会に自由をもたらした人々の勇敢な姿。

 

そんな勇ましい人々の姿を、「三重苦」を乗り越えたヘレンケラーのストーリーに託して伝えることで、今を生きる我々の差別に対する姿勢を問い直しているのだと思います。

 

 

 

 

 

『夜のピクニック』 恩田陸

友達との特別な時間

 

 

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みなさんの思い出に残っている学校行事はなんでしょうか?

 

文化祭、体育祭などさまざまな行事が思い浮かぶと思います。

 

 

ぼくが数ある行事の中で、一番印象に残っているのは高校時代の強歩大会です。

 

強歩大会というのは、全校生徒が50kmのコースを走り、制限時間内にゴールすることを目指す行事です。

 

強「歩」大会というのは名ばかりで、走らないと制限時間内にゴールできません。

 

ですから、強歩大会の前には、週4回の体育の時間で校庭の外周を走らされ、長距離を走る体力を鍛えます(しんどい!)。

 

キツくてしょうがない行事なんですが、楽しみもあります。

 

それは友達と一緒に走れることです。

 

50km走という極限状態に置かれると、友達の本性が垣間見えます。

 

高校3年のときには、一緒に走っていた友達に置いていかれて、友達の薄情さに怒りが湧きました。

 

一方で、ぼくがゴール直前で足をひきづって歩いていたときに、クラスメートの子が足を止めて「大丈夫?」と心配してくれた子もいて、彼の意外に優しい一面を知ることができました。

 

 

この小説『夜のピクニック』の舞台も同じような学校行事「歩行祭」です。

 

ただ、この「歩行祭」は朝8時から翌朝8時までの24時間、仮眠を挟んで80km歩き抜くという行事で、50kmで音を上げていたぼくからしたら想像を絶するものです。

 

長い道のりの中、友達と語らい合ううちに、友達の意外な側面や秘密があらわになっていきます。

 

貴子と融の秘密の関係、貴子の密かな賭け、杏奈がかけた「おまじない」、乱入してきた謎の少年。

 

読み進むにつれて秘密が明かされ、貴子と融のわだかまりが解消されていくストーリー展開は圧巻です。

 

 

みんなで、夜歩く。ただそれだけのことがどうしてこんなに特別なんだろう。

 

みんなで歩く。

 

その行為の中でかけがえのない友達と語り合い、相手の意外な一面を知り、もっとその人のことを好きになる。

 

人とこんなふうに深く向き合い、交流しあえる時間。

 

それが一生に一度しかない貴重な青春の時間だからこそ、特別だと感じるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『そしてバトンは渡された』 瀬尾まいこ

繋がれる幸せのバトン

 

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大家さんにお父さん、おばあちゃんにおじいちゃん。思い出の中でしか会えない人が増えていく。だけど、いつまでも過去にひたっていちゃだめだ。

 

(中略)

 

親子だとしても、離れたら終わり。目の前の暮らし、今一緒にそばにいてくれる人を大事にしよう。

 

 

 

主人公の優子は幼い頃に母を亡くし、その後も何度も父親、母親が代わっています。

 

 

水戸さん、梨花さん、泉ヶ原さん、森宮さん。

 

 

親から新たな親へとバトンが繋がれ、優子はどの親からもたっぷりの愛情を受けて育ちます。

 

 

親子だとしても、離れたら終わり」という一見冷たくも思える優子の覚悟は、自分を今目の前で見守ってくれる人を大切にしようという優子の誠意と優しさの裏返しです。

 

 

血の繋がっていない親と暮らす複雑な家庭環境にあっても、愛し愛されるという家族の基本を忘れない。

 

 

だからこそ優子は周りから見れば不幸に見える状況に置かれても、自分が不幸だとは感じず、のびのびと生活できたのだと思います。

 

 

 

僕はこの小説に出てくる5人の「親」のなかで一番森宮さんが好きです。

 

 

不器用で親バカで、少しお節介なところもありますが、思春期で悩みの多い優子の相談に乗り、大量の餃子を作ったりして優子を励ましました。(励まし方がちょっとずれているような気がするけど…)

 

 

最後まで優子に寄り添い、バトンをゴールに届けたのも森宮さんです。

 

 

最後のシーンで森宮さんが残した

 

「どうしてだろう。こんなにも大事なものを手放す時が来たのに、今胸にあるのは曇りのない透き通った幸福感だけだ」

 

という感想は、大事な「娘」の幸せを願い、献身的に尽くせる森宮さんの人柄が表れた名言です。

 

 

互いを大切に思い合うという家族の原点を描いた名著です。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『凍りのくじら』 辻村深月

ドラえもんの暖かいまなざし

 

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あなたの描く光はどうしてそんなに強く美しいんでしょう。

 

そういう質問をまま受ける。私の撮る写真についての話だ。

それに対する私の答えは決まっている。

暗い海の底や、遥か空の彼方の宇宙を照らす必要があるからだと。

 

 

主人公の芦沢理帆子(二代目芦沢光)は新進気鋭のフォトグラファー。

 

 

彼女が父のあとを継ぎ、写真家となったきっかけは、高校生の夏に起きたある不思議な出来事だった。

 

 

そのとき彼女が浴びた光は、今も彼女を照らしている。

 

 

今、真っ暗闇で悩み、苦しんでいる人にもその光を届けたいから、彼女は写真を撮っているのだ。

 

 

 

高校生の理帆子は誰とでも表面上は仲良く付き合えるが、本音で語り合うことができない人間だった。

 

 

暇つぶしのために友達と遊んだり、恋人を作ったりする周囲の人々を心の中でバカにしているから、色んな人と関わっても、自分は『少し・不在』だと感じてしまう。

 

 

彼女の父は5年前に失踪し、母は癌のため余命わずかだ。

 

 

友達との関係も家族との関係もどこか不安定な彼女は、自分の理想を追求するために、ダメ男・若尾大紀と付き合っていた。

 

 

彼と別れた後も理帆子は彼を甘やかし続けてしまい、その結果取り返しのつかないことが起きてしまう...

 

 

 

家族との別れ、若尾の起こした大事件。

 

 

一人ではどうにもならない窮地に直面した理帆子は自分を支えてくれる人の温かさと家族の愛を実感し、周りの人に心を開いていきます。

 

 

生きづらさを感じ、真っ暗闇のどん底にいた理帆子を終始温かいまなざしで見つめ、最後は暖かい光で彼女を照らしてあげる。

 

 

理帆子を見捨てず、支え続けるこの小説の温かさは、何度テストで0点をとってものび太を信じて手を貸し続けるドラえもんの優しさそのものです。

 

 

辻村さんの『ドラえもん』と藤子・F・不二雄先生への愛とリスペクトが詰まった物語です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『博士の愛した数式』 小川洋子

弱いものへの無償の愛

 

 

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「弱い子はみんな私が守ってあげる」

 

 

私が曾祖母のお見舞いに行ったとき、彼女が言っていた言葉です。

 

 

痩せた体に反した思いがけない、力強い言葉に驚いたことを覚えています。

 

 

年配の方が弱いものへ向ける無償の愛は何よりも力強く、逞しく感じるものです。

 

 

博士がルートに向ける愛情にも「弱いものを必ず守ってやる」という逞しい精神を感じました。

 

 

 

家政婦の「私」は老数学者の「博士」のもとへ派遣されます。

 

 

博士は記憶が80分しか持たず、身の回りのことも一人では全くできません。

 

 

しかし、博士の数学へ向ける情熱と愛情は人並みならぬものでした。

 

 

彼は身の回りにある数字に次々と意味を持たせていきます。

 

 

28は完全数、220と284は友愛数...

 

 

数字を愛し、謙虚な姿勢で数字に対峙する。

 

 

数学が嫌いだった「私」もそんな博士の数学についての話を聞いて、数学の魅力に引き込まれていきます。

 

 

博士が人並みならぬ愛情を向けるのは数学だけではありません。

 

 

彼は小さい子供に対して無条件に愛情を与えます。

 

 

博士は「私」の10歳の息子が一人で留守番していることを聞き、自分の家に息子を連れてくるべきだと主張します。

 

 

それ以降、息子は学校帰りに博士の家に来るようになり、博士は息子を「ルート(√)」と呼び可愛がります。

 

 

博士がルートに向ける深い愛情。

 

 

それをきっかけに「私」もルートも博士に心を開いていきます。

 

 

「私」とルートと博士。

 

 

本当の家族ではないけれど3人の強いつながりは家族に近いものを感じました。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『やめるときも、すこやかなるときも』 窪美澄

その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、 悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、 これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、 真心を尽くすことを誓いますか。

 

これは結婚式でよく聞く誓いの言葉です。

 

 

喜ばしいことだけではなく、辛いことも悲しいことも二人で分かち合って乗り越えていきなさい。

 

 

この言葉にはこのような含意があると思います。

 

 

この小説は家具職人の壱晴と会社員の桜子が出会い、結ばれていくストーリーです。

 

 

二人はどちらも心に「傷」を抱えています。

 

 

壱晴は、あるトラウマのせいで、毎年同じ時期に突然声が出なくなる「記念日反応」という心の病を抱えています。

 

 

桜子は、酒に溺れ、家族に暴力を繰り返す父を抱えています。

 

 

桜子が壱晴の心の傷に寄り添い、壱晴が桜子の家庭と向き合うことで二人は距離を縮めていきます。

 

 

壱晴と桜子の恋は打算的な恋です。

 

 

壱晴は過去のトラウマを乗り越え、病を克服するために桜子を求め、男性と一度も肉体関係を持たずに30代になってしまった桜子は、窮屈な家庭を抜け出すために壱晴を求めました。

 

 

純真無垢な二人が結ばれる、キラキラした恋愛ストーリーとはかけ離れたものです。

 

 

しかし、打算的だからこそ現実的で、美しいと思うのです。

 

 

ぼくの好きな曲の一節に次のような言葉があります。

 

キレイとは傷跡がないことじゃない、傷さえ愛しいという奇跡だ

Official髭男dism 「ビンテージ」より )

 

 

 

相手の「傷」をひっくるめて愛したいと思えた。

 

 

そんな相手を見つけられたことは二人にとって奇跡だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『本日は、お日柄もよく』 原田マハ

心のこもった言葉は世界を変える

 

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。

 

これは、上野千鶴子さんが平成31年東京大学学部入学式で新入生に贈った祝辞の一節です。

 

新入生としてこのスピーチを聞いた自分は、この人の言葉を一言一句聞き逃すまいと思わず聞き入ってしまったことを覚えています。

 

 

魂のこもった言葉で人の心を打ち、ときに人々の考えや行動を変えてしまうようなスピーチ。

 

この小説のテーマは、そんなスピーチの原稿をかくお仕事です。

 

 

OLとして毎日お気楽に過ごしていた二ノ宮こと葉は、伝説のスピーチライター・久遠久美に出会い、人の心を動かすスピーチの魅力に気づきます。

 

 

こと葉は久美の教えを受けて、選挙に初出馬する幼馴染・今川篤志のスピーチライターとして働き始めます。

 

 

この本には、スピーチをする際のテクニックや極意がいろいろ出てきます。

 

聴衆が静かになるのを待ってから話し始める、エピソードや具体例を織り込むなどなど。

 

 

これらのテクニックはもちろん重要です。

 

しかし、スピーチで一番大切なものは話し手の「心」だと思います。

 

 

親友の結婚を心から祝す気持ち、世の中を変えなければならないという意志。

 

 

こと葉の書いたスピーチにはそんな力強い「心」が込められています。

 

 

私が上野さんのスピーチに感動したのも、大学での学びを、恵まれないひとびとを助けるために生かしてほしいという心からの願いに感動したからだと思います。

 

 

ネットやSNSで心ない言葉が飛び交う世界。

 

「恵まれないひとびとを貶めるため」ではなく、頑張っている人々を励ますため、報われない人たちの背中を押すためにこそ言葉を使うべきです。

 

 

優しい「心」のこもった言葉が飛び交う世界になりますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『君が夏を走らせる』 瀬尾まいこ 

素直になりたい 素直になれない

 

 

金髪ピアスの不良高校生がひとりで1歳10ヶ月の女の子の子守りをしている。

 

みなさん、どう思うでしょうか?

 

 

「恐ろしい」 

「こんなやつに小さな女の子を任せるなんて正気じゃない」

「ちゃんとした大人に子供を任せるべきだ」

 

 

というのが真っ当な感想でしょう。

 

 

しかし、人を見かけで判断してはいけません。

 

 

この小説の主人公大田は、金髪ピアスの不良高校生。

 

中学校では授業をサボってこっそりタバコを吸っていたほどの悪ガキです。

 

 

でも、大田はただの悪ガキではありません。

 

中学3年のときに、駅伝大会に参加したことをきっかけに彼の意識は変わりました。

 

 

陸上に真面目に向き合って、不真面目な自分から変わりたい。

 

でも、不真面目な生徒が多い高校で真面目に振る舞うと周囲から浮いてしまう。

 

 

素直になりたいけれど、素直になれない。

 

 

そんな大田は、中武先輩に頼まれて、1ヶ月間、1歳10ヶ月の女の子・鈴香の子守りを始めます。

 

 

鈴香に振り回されながらも、慣れない子供のお世話を必死でしていくうちに、大田は鈴香の心をつかんでいきます。

 

 

「俺にも鈴香と同じように、すべてが輝いて見えたときがあったのだ。もちろん、今だってすべてが光を失っているわけじゃない。こんなふうに俺に「がんばって」と言葉を送ってくれるやつがいるのだから。俺はまだ十六歳だ。「もう十分」なんて、言ってる場合じゃない。」

 

 

人の「がんばって」という言葉に応えて、素直に頑張ることができる大田。

 

 

頑張り屋さんの彼なら、きっと未来に向けて真っ直ぐに走っていくことができるはずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『生きるぼくら』 原田マハ

世の中には勝ち組も負け組もいない

 

※本の内容のネタバレを含みます。ご注意ください。

 

 

【目次】

1. いじめられっ子は負け組か?

2. 一流企業に勤める人は勝ち組か?

3. 世の中には勝ち組も負け組もいない

 

 

1. いじめられっ子は負け組か?

 

主人公の麻生人生は、中学校・高校でいじめられたことをきっかけにひきこもりになります。

 

特に、高校時代に受けたいじめは壮絶でした。

 

人生は毎日壮絶ないじめに遭いながらも、我慢して学校へ行き続けました。

 

「学校に来なかったら、おまえの家を燃やす」と脅されていたからです。

 

 

しかし、いじめっ子が、人生が母子家庭であることをバカにし、母の作ってくれたお弁当を地面にぶちまけ、砂まみれになった弁当を食べるように強要したことをきっかけに学校へ行けなくなります。

 

人生は学校をやめ、「母ちゃんに、もっと楽させたいんだ」と言って働きはじめました。

 

 

近年、いじめは社会問題となり、ニュースなどでとりあげられることも多くなってきました。

 

しかし、「いじめられる方が悪い」とか「いじめられっ子は負け組だ」という風潮は依然としてあるように思えます。

 

 

母を思っていじめに耐え続け、母を楽させたいと思って働くことを決心した人生が、なんの目的もなく、快楽に任せて人生をいじめたいじめっ子たちと比べて劣っているとは思えません。

 

むしろ、人格的に優れているのは、いじめられっ子の人生の方でしょう。

 

 

2. 一流企業に勤める人は勝ち組か?

 

人生は派遣の仕事を解雇されてしまい、24歳まで引きこもりを続けます。

 

人生と共に暮らすことに限界を感じた母は置き手紙をして、家出をしてしまいます。

 

母が残してくれた年賀状を頼りに、人生は蓼科のマーサばあちゃんのもとへ向かいます。

 

人生はマーサばあちゃんの家で、おばあちゃんのもう一人の孫・つぼみと出会い、一緒に米作りを始めます。

 

また、祖母を金銭的に楽にさせるために清掃の派遣の仕事も始めました。

 

 

田植えの直前の時期には、人生の派遣先の介護施設で働いている田端さんの計らいで、彼の息子の純平が米作りの手伝いに来ます。

 

純平は一流企業でしか働く気がなく、第一志望の業界である出版社からはことごとく不採用となり、就活浪人を考えていました。

 

そんな純平も、米作りに参加し、父から檄を受けたことを機に考えを改め、最後まで就活を続け、農機具メーカーの子会社に就職することが決まりました。

 

 

純平は米作りを通じて、農業という自分が本当に興味を持てるものを見つけ、それに携われる仕事につくことができました。

 

純平は決して負け組ではなく、大企業に就職するよりも幸せな選択ができたと思います。

 

 

3. 世の中には勝ち組も負け組もいない

 

最近、受験や就職など様々な場において、ヒエラルキーを気にしすぎている人が多いように思います(自分も人のことは言えませんが)。

 

ヒエラルキーの上位に位置しているから勝ち組、下位に位置しているから負け組」という考え方は、「上位」にいる人たちの自己満足に過ぎません。

 

自分の好きなことに夢中になれていることや、人の繋がりを大事に生きることの方が、「勝ち組」になることよりもよっぽど大事なことではないでしょうか。